ふと思ったこと

こんにちは。まりっぺです。

今回は少し休憩して、私が感じたことを少し話したいと思います。

「STORY」でこの1か月働かしてもらって昔アメリカで受けていた授業を思い出しました。

父の転勤でアメリカに住んでいた私は、英語が使えるのにもったいないと社会人になってから言われる機会がふえました。

心の中では「…何が?…もったいない?」といつも思ってしまいます。

最近やっと理解できたのは、きっと英語を勉強した人にとっては「英語」という一つの資格みたいなもので、自分の頭の引き出しの一部なんだろうなと思いました。

間違っていたらごめんなさい。

なんの知識もない小学生の私は現地の学校にポンッと放り込まれ右も左もわからない中いつの間にか身に着けた「英語」は私にとってはコミュニケーションツールで特にそれを使って仕事にと思ったことがありませんでした。

「人の評価」

それを気にするか気にしないかは人それぞれだとは思います。

アメリカから日本に帰ってきた私は「周りと比べられて評価される」ことに一番にショックを受けました。

もちろんアメリカにいても「人の評価」は受けるのですが、当時の私は少し違う感じ方をしました。

小学4年生の年齢で日本の学校に通うことになり、アメリカでは現地の学校へしか行ってなかったこともあり日本語の勉強を全くしてなかった私に特別に3年生か4年生か選んでもよいというPTAの判断で1週間づつ体験することになりました。

初日、小学3年生の教室に入り隣の男の子に教科を見せてもらいながらの授業。

授業が進むにつれて「これまででなにか質問はありますか?」と問いかけがあるのは普通だったのですが。そこで誰も手を上げない、誰も質問をしないということが起こった私は焦り、自分が手を上げ質問しました。すると、教室にいるみんなは嫌そうにこっちを見て来たのを今でもはっきりと覚えています。

小さいころから新しい環境に身を置くことが多かった私は自然と人の顔色見て直感で善し悪しの判断をしてきたのでその時質問することはダメなのだと感じました。

案の定隣の男の子に「お前あほなんか!そんな誰でもわかること質問するなや!」と言われたことをきっかけに言い合いになり、当時まだ日本語をまだあまり喋れなかったこともあって言いたいことが言えず悔しい思いをしました。

アメリカの教育では授業中に手をあげて質問する積極性がとても評価され。子供たちは自ら理解できることに対しても質問を常に考え質問を発表するという感じで授業が進んでいきます。

それは自分のためではなく、「もしかしたら誰かわからない人がいるかもしれない」という「誰かのため」という精神と同時に先生に対する返答「教えてくれて感謝している。しっかり聞いている、学ばせてもらっている」という意味も含まれていました。クラスのみんなは様々な質問をする仲間に対してお互いを尊敬しどれだけ違う意見を持っていても「自分の考えは自分の考え」「相手の考えは相手の考え」と理解しあうことで学んでいっていました。

良かれと思ってしたことがみんなの嫌なことだった。自分の意見の発表は控えないといけない、みんなに馴染んで同じような行動をとることがここでは大切なのだ。そうしないと友達ができないのだと私は感じ、家に帰って母に泣きついたのを覚えています。

大学に入り「プレゼンテーション」「ディベート」の授業を受講してやっとそんなこと勉強し、大学に入るまでそんな価値観を勉強できないのだと少しがっかりしました。社会人になると普通にそういうことが求められ、自分の意見を発信するという人と触れ合う機会が増えたのはよかったのですが「発信」だけでそれ以降がない。発信に発信が重なり結局上の人の意見が通る。

「なんだかなー」と思っていたところに出会った「STORY」。自分の意見を出し、相手の意見を聞き、議論しさらにまた考える。それは自分のためでなくて誰かのために、誰かのことを思ってやっていることのように感じました。

あ、この人たちと仕事したいなって、人に魅力を感じて始めた仕事。なんの知識もまだない私がどう成長していけるのか自分でも楽しみに頑張っていこうと、ふと思った今日この頃です。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です